◆◆◆ 第11回同窓会総会 ◆◆◆ | |||||
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平成20年7月5日(土)、第11回総会・講演会・懇親会が行なわれました。
退職された石井先生・小栗先生・加倉井先生をお迎えして、講演会・トークショーを行いました。獨協創設期から退職された現在の様子な どをお話いただきました。 先生方にゆかりがある多くの同窓生の方々にお集まりいただくことができ、大盛況のうちに終えることができました。 総会では、下記の議案が承認されました。 1.平成19年度事業報告 2.平成19年度会計報告 3.卒業記念品(卒業証書入れ)の学校への協力 4.平成20年度事業計画・予算案 |
石井先生 特別講演(要旨)
<冒頭>
数日前に友人が訪ねてきまして、お酒を飲みながらスルメを食べたのですが、歯が痛くなり、たまりかねてとうとう緊急で通院しました。
スルメを食べて歯が痛くなるとは、、、学校を引退してよかったと、しみじみと自分の体力の限界を思う今日この頃です。(笑)
<開設準備 〜とにかく面白い学校を作ろう!〜>
42年間、獨協学園に関わってきました。22歳で教師になり、そのままずっと獨協学園です。はじめの13年が目白の獨協中学で、その後、ほぼ
30年近くを獨協埼玉で過ごしました。 開設準備の時は、初代教頭の新宮先生が中心となり、私(石井先生)、加倉井先生、紀内先生が開設準備教諭として、『とにかく面白い学校を 作ろう!』という想いで目白からやってきました。当時は、週3日間、1日4時間ずつ合計12時間の授業を目白でこなして、残りの時間で開設準 備をしました。とても忙しかったです。加倉井先生以外は車の免許を持っておりませんでした。移動や近隣の中学校の訪問に必要だということで、 皆さんは免許を取得するところからはじまりました。(皆さん苦労されたようです)
<地固め 〜豆腐の上〜>
この土地は、元々水田でした。地盤は、「豆腐の上」と言われるくらい非常にやわらかいものでした。工事の際、杭が打ち込まれると、一打でストー
ンと地中に入ってしまうくらいでした。何本かの杭を溶接でつなぎ合わせてようやく硬い地盤にたどりつく状態でした。
<学校作り 〜理想のカリキュラム〜>
まずはどういう学校を作るかというイメージ作りから始めました。それは、カリキュラムに一番反映されるということで、『理想のカリキュラム』を検討
しました。 1、2年時は、文系・理系と分けずに皆が同じ科目を必修科目として履修することにしました。3年時は、8〜12時間(後の年度によって異なる) の必修科目時間を除いて、後は各自が決める自由選択としました。当時の埼玉県では、前例の無いカリキュラムでした。 入試についても、地域対象の推薦制度を作りました。中学校の調査書に基づいて、一定水準を満たしている生徒を必ず受け入れるというものでした。 この推薦制度も当時の埼玉県では例の無い制度でした。 当時の埼玉県の私学としては、非常にユニークなカリキュラムやシステムを持った学校でした。
<施設準備 〜図書館と体育施設〜>
準備の面でも非常に苦労しました。
図書館の蔵書は、確か1週間程度で導入図書を決めました。導入にあたり基本図書というものがありますが、それに加えてそのほかの図書を選定 する必要がありました。私は、国語教諭なので国文関係の図書ばかりゴッソリ導入しました。未だに全然読まれずに書庫に眠っているかもしれま せん(笑)。それは、もしかすると大学並みの図書かもしれません。誠に勝手な決め方をしたものです(笑)。 開設準備教諭の中に体育教諭がいませんでした。これも中々大変なことでした。体育館には、バレーボール、バスケットボール、バドミントン等のコ ートをデザインしました。しかし、目白の太田先生(2期から獨協埼玉高校に赴任された体育教諭)からダメ出しをくらいました。慌てて建設会社に 変更を依頼して、太田先生にデザインしていただいたコートに変更しました。 野球場のバックネットは、建設会社が設計した当時は、今のラグビー・サッカー場の真ん中にありました。野球協約に載っている規則に則って設計さ れたということでした。しかし、当時の東京の野球場をくまなく調べて、どの球場も作りがバラバラであることがわかり、その旨建設会社に伝え、今 の形に収まりました。
<生徒募集 〜驚異の歩留まり率〜>
施設の準備を進める傍らで、生徒募集をはじめました。
4人で埼玉、東京、千葉等近県の中学校を随分廻りました。当時の埼玉県は、公立高校重視の地域だったので、けんもほろろという感じでした。 しかし、段々と興味を示してくれる学校が出始めました。それに気を良くした4人は、入試志願者が3000名になることを想定して、入試会場として、 大学の校舎を借りました。しかし、実際の受験者数は、700名でした。(笑) ただ、非常に面白い現象がありました。当時、埼玉県の私立の合格者の歩留り率(合格して入学する生徒の割合)は、7〜8%でしたが、本校は80% でした。驚きの数値でした。
<経営と現場のそれぞれの意向 〜古の古武士〜>
当時の生徒数については、理事長をはじめとする経営サイドとかなり交渉しました。初期の頃は、1期は7クラス、2期は6クラスでした。
経営サイドは、当然のことながら、生徒がたくさん来てくれた方が喜ばしいわけです。そこで、経営サイドは、8クラス分の生徒を受け入れるよう指 示してきました。現場サイドとしては、ある程度の水準を保って、諸先生方が一緒に教育をやっていける皆と出会おうということを目的に、7クラス であったり、6クラスであったこともありました。 要するに、2年間に渡って経営サイドの要請を断り続けていたわけです。 そのときに一番力になったのが、古の古武士のような風格が漂う矢島仁吉初代校長先生でした。いつも懐には辞表を忍ばせておられたそう です。もっとも、私学の校長というのは、そういう覚悟で常に臨んでいるわけです。何時如何なるときでも腹を切る覚悟で臨まなければなりません。 それぐらい厳しいものだということを私も矢島先生から学びました。
<男女共学 〜男子校なのに女子トイレ?〜>
男子校に入学した1期生と2期生は、不思議に思ったと思いますが、はじめから女子トイレがありました。
我々開設準備に携わった4人は、はじめから男女共学にしたかったんです。そういう計画でしたが、駅から学校まで遠く、その間何も無い(当時)た め、矢島先生が危険だと判断されました。その後、バス会社や色々な方面と交渉して、矢島先生の了解を得て、3期生からようやく共学が実現しま した。 女子生徒を迎え入れて、いきなり学校が華やかになりました。それまでの1期生と2期生だけのころは、元気がいいというか勇壮果敢な連中がたく さんいたので、めちゃくちゃでした(笑)。ところが、女子生徒が入ってくるや皆畏まって大人しくなっていきました。 そのあたりからは、獨協埼玉の評判もどんどん上がっていきました。当時は、獨協大学の英語学科の人気が急上昇した頃でした。本校は、女子生 徒にとって、魅力的な大学への近道なのか、多いときで2000名近い受験生が志願してくれました。
<中学校開設 〜6年かけて子供を育てる〜>
平成7年頃からどうしても中学校を作りたいと思いはじめました。6年かけて「自分で問題を見つけて、そして自分で考えることができる子供」を育
てたいという想いで中学校作りをはじめました。とても大変でした。なかなかはじめは周りから賛同を得ることができませんでした。結局、5〜6年 かかりました。 中学がスタートしたときは、想像を超える受験生が集まりました。中学でどの程度合格者を出せば、どの程度入学してくれるのか、当然のことながら 初めてのことでありわかりませんでした。受験産業の方々とも相談して合格者数を決めたわけですが、ものすごく残ってくれまして、定員の約1.5 倍の生徒が入学することになりました。その中学1期生たちも6年を経て既に卒業し、大学進学実績もそこそこ残してくれる中で、中学校も安定した 流れの中に今あるわけです。
<教育あれこれ 〜ガリ勉の絶滅とハイパーメリトクラシー〜>
ある時代は、よく、18歳で人生が決まると言われたことがありました。つまり、受験勉強に精を出して、一流の大学に入った時点である程度の人生
が保障されたわけです。要するに、勉強をする〜受験学力という意味での結果を出す〜それ自体がその人間の将来(社会的な立場)をほぼ決定でき た時代だったのです(一概には言えませんが)。 しかし、今は違います。 今は、メリトクラシー(実績主義)の時代と言われてます。それも現代はハイパー、またはスーパーメリトクラシーの時代と言われてます。要するに 今までは、子供の頃からガリ強をして、いい高校や大学へ入ることで、場合によっては将来の社会的立場に安定してたどり着けました。しかし、これ からは、それだけではダメだと言われてます。 当時は、運動が全然だめでも、勉強ができるだけで、周りからリスペクトされたものです。しかし、今は、それだけではダメです。一定の学歴は必要 です。それは今も変わりません。しかし、もっと要求されるものがあります。 ひとつは、「ネゴシエーションパワー(交渉力)」。そして、人をどれだけ・どのように集められるかという「組織力」、同じような力として、どれだけ友達 を作ることができるか。。。そういった学校の受験勉強だけでは絶対に得ることができない、様々な体験(失敗や成功等々)をしないとできな力が、 間違いなく要求される時代になると言われてます。そして、今は、まさにその時代に入っています。私もそうだろうと実感しております。 そんな中、、、獨協埼玉は、もしかしたら、無意識のうちにハイパーメリトクラシーの先駆けだったのではないかと思います。今日来ている方々 の中には、あまり勉強はしていなかったが、交渉力や組織力がいつの間にか身についている人がいますね。そういう力が身につく土台は、もしかし たらココで作られたかもしれません。獨協埼玉は、そういう意味で価値がある学校じゃないかと思います。もしそうだとしたら、あの頃の理想のプロ グラムも活きてくるわけですね。 現実として、最初の実績を作るためには、相当競争的な受験対応型のカリキュラムで臨まざるを得ないこともありました。現実の流れとして仕方がな いことです。しかし、そこだけに芯が置かれた学校ではなく、それはそれとして、学校の中で色々な体験が繰り返されていく、そういう場所であって くれれば、一期生から始まる連綿たる歴史が受け継がれるのではないかと思います。 これからも、ひとつには、目の前の実績を積み上げなければなりません。これはともかくとして、様々な多様な余分な体験をしながら子供が成長して いくような場所であって欲しいと、われらが懐かしい獨協埼玉に期待します。 またいつかお目にかかりましょう。
(編集・文責:2期 小野)
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