獨協埼玉高校同窓会
◆◆◆ 第6回同窓会総会 ◆◆◆ 


◆◆◆◆ 創立5周年記念講演会 中島文夫元校長先生の講演 全文 ◆◆◆◆

同窓会創立五周年記念講演
「子どもを育てる」
第二代校長   
中島 文夫先生


 私、大学を定年退職いたしまして、こういったご依頼を受ける機会はないだろうと思っておりましたが、学校の歴史の半分近くの間を校長として勤めさせていただいたご縁があるので、日ごろ考えていることなどをお話ししたい、何かのお役に立てて頂ければ、と思って参りました。

 前のほうに並んでいる皆様を拝見いたしますと、現校長もおられることですし、いささか固くなってしまいそうですけれども、ここは気持ちを楽にするように努めて話をしたいと思います。

 「校長をしていたときの基本姿勢とからめて」というご依頼でしたが、お引き受けした後いろいろ考えているうちに、だいぶそこからずれてしまいました。 端的に言えば、より以前の段階、個々の家庭での子供の育て方が一番大事であるのに、今の日本の社会ではこれが相当に空洞化してしまっていると思うようになりまして、専門の分野とは直接関係がないのですが、いろいろと自分なりに勉強してきたつもりです。そういったところから、少し全体としてのまとまりがないかもしれませんが、お話をさせて頂きます。

 まず、子供を育てることについて私たちが一番しっかりと胸に収めていなければならない大事なものは何かというと、それは「親ははじめから親であるわけではない」ということです。誰でも子供を授かって初めて親になります。ですから、最初の子が生まれたときには、どうしたらいいのか分からなくて途方にくれる、ほとんどそれに近い思いを誰しも抱くはずです。多分、この領域の専門の勉強をした方であっても、実際に自分が親の立場に立った時には素人と似たり寄ったりの状況になってしまうんじゃないか、と推測いたします。ですから、当然素人はなおさらのことでありまして、育児に関する本を読んだりしてもいまひとつぴんと来ない。本当にこれでいいのかしらという不安がどうしてもぬぐえない。裏返せば、それで当たり前なんだということです。「別に自分だけが親として劣っているわけでも何でもない、みんなその意味では同じなんだ」という安心感を持ってもいいんじゃないかということも言えます。そんなわけですから、当然、はじめから完璧な親なんて居ないわけです。子の成長とともに親もまた成長していく。これでいいというより、これが望ましいことなんですね。なぜなら子供が年を経ていけばその子供に対する親の関係は変わっていかなければならないはずですが、ところが親のほうが人間として一向に成長しないということになりますと、その関係は変わっていかないわけですね。そうするとどこかの時点でふさわしい親でなくなってしまうということになりかねないと思います。

 実はちょっと話はそれますけれども、親子の関係だけじゃなくて、夫婦の関係も本質的には同じことだと私は思っています。これは、職業柄卒業生の結婚式に招かれたときなんかにスピーチの種にさせて頂いたのですけれども、二人が愛し合うようになったきっかけはさまざまです。現実にさまざまであり、それで少しもかまわないわけですね。ある場合には少々おせっかい焼きの人が居て強力に見合いを勧められて、会ってすっかり気に入ってしまったということもあるでしょうし、たまたま何かの時に出会って一目ぼれということもあるでしょうし、古くからの友人でその当時は格別に思っていなかったのに、十何年経ってなんとなく気持ちが通うようになったなんてこともあるでしょう。いずれにしても、きっかけがどうであれ結婚したというそこから新しいスタートが始まっているわけですね。そしてその後夫は夫として妻は妻として努力し、成長するようであればその夫婦はうまくいく、円満な夫婦でいられるということになるのだと思います。しかし、もしも双方が、あるいは一方が、その努力を怠ったらどうなるか。だんだん二人の関係はちぐはぐになっていく、少なくともその可能性は多分にあるわけですね。で、気がついたら離婚届を突きつけられてサインしてくれっていうことになります。あるいは二人であっさりと別れようかということになり、離婚届を出してしまうことになるわけです。まあ、そういうわけですから、何の努力もせず、したがって全く成長しない夫婦ですと、遅かれ早かれ破局が訪れる。はたから見ていますと、それは手に取るように見えます。やっぱり、ということになってしまうわけですね。最初に二人がひかれあったその要因はなんであったにしても、それは決して永続的ではないからです。新しい要因を積み重ねていくことによってはじめて二人の愛が長く続くことになる。

 最近よく聞く話です。子供たちが独立して二人だけがまた残った、その段階で次に夫が定年退職を迎える。すると突然妻が離婚してください、と申し出る。「私も定年にしてください。ついてはあなたの退職金を半分いただきます。」――こういうケースがよくあるわけですね。こうなってしまっては最大の悲劇です。悲劇的な結末ですが、冷たく突き放して言えば、自業自得です。どうぞ皆さん、そんなことのないようにして頂きたいと思います。

 本題に戻りまして、子を授かって親となった人は誰でも、「この子はどんな子に育つだろうか」と思いを巡らせるものです。あるいは、「こんな風な人物に育てたいな」という夢を描くものです。そこでひとこと苦言を呈したいと思います。我が子といえども親の願望通りに育つと思ったら大間違いです。むしろ、子は親の思う通りには育たないものだと考えていたほうがいい。そうしますと、自分の思惑とはだいぶ違う方向に子供が動き始めても、そんなにショックは受けません。それが普通なんだと思っていればショックでもなんでもない。ところが親の思い通りになるものだと思い込んでいたら、これは大変なショックです。ま、こんなことがないように、子育ての最初の段階でしっかりと自分の胸の中に収めておいた方がよいと思います。

 ところで、子供がどういう人に育つか、このことに深く関連してくるのが、いったいこの子はどういう才能を持って生まれてきているのかということだと思います。率直に言って神様は決して万人に同じ才能を同等に与えてはくださらない、と私は考えております。でも、誰にも何かしらよいものを与えてくださっている。ただそれを見る目がないと見えないことが多い。そこで、うちの子はだめだだめだと思い込んでいる親が少なからずいるわけですね。お隣の子と比較して学校の成績がよくない、かけっこさせれば足が遅い、体操させればへたくそで、鉄棒の逆上がりなんかはとてもできない。あるいは歌を歌わせたらまるっきり音痴で、といった具合に、自分のことを棚にあげてくさしたりするわけです。とにかく、神様はそういう面で決して平等じゃない。別の意味で平等なんだと思いますが、人間の目には分からないのですね。ですから、いろいろな面で、例えば、知力の面、体力の面、あるいは感性の面、そういったいろいろな面で、すべての子が同等の要素を持って生まれてきているとはどうも考えられない。そうであるならば、そのことを前提にして考えなくてはならないだろう、ということなんですね。人それぞれに与えられている才能の質が異なる。程度もまた異なる。同じように感性的に優れているといってもそれは人によってさまざまだし、一級のプロの演奏家になるだけの才能に恵まれている子もいれば、そこまではいかないけれども趣味として楽しむ程度の才能は持っているかもしれない。ですから、質もまた程度もさまざまだとういことが考えられます。花にたとえますと、ある子はゆりの種を持って生まれてきて、ある子はバラの種を持って生まれてきた、そういう風に考えたほうがいいだろう。知力に優れた子もあれば、感性に優れた子もあれば、また運動の能力に優れた子もある、ということをまず見極めておく必要があるだろうと思います。

 しかも、もうひとつ厄介なことがあります。ある子供がある種の才能に恵まれているということは、皮肉なことに、それが適切に育成されて始めて分かるということです。裏返せば、今のところまだそういった才能を特に発揮していない子供にその種の才能が全くないとは断言できない、ということです。持っているかもしれない。ただそれが適切に育成されたことがなかった、ということに過ぎない可能性だってあるわけです。なぜ私がそれを特に強調するかといいますと、こういう例があります。これは学科の場合ですけれども、最近指摘されていることです。高校まで進学してきた段階で、数学のできがどうもよくない。まるっきり分かっていない。そこで教師はとかくこの子には数学の才能がないんだと決めてしまいがちなんですけれども、それは早計なんですね。その子の数学の学習歴をずっとさかのぼって綿密に調べてみないと分からない。もしかしたら、途中の大切な段階で大切なことをきちんと教わっていないために、非常にできなくなっちゃったということも大いにある。どこで躓いたかを見極めて、そこに戻って教えなおしたら非常にできるようになった、という例が実際に報告されています。他の能力についても私は似たようなことがいえるんじゃないかと思っております。子供のころにたまたま描いた絵をその時の絵の指導者からこっぴどくさされてしまったために、以後もう絵を描く気がしなくなっちゃった、ところが実は絵画の大変な才能を持っていた、ということもあるんですね。ま、そんなわけで適切に開発されて初めてそうだと分かるものなんですね。しかも芽生えの段階で見つけるのは難しいことわけです。「この子を適切に育成したら才能を発揮するだろう」と断言できるものでは必ずしもない、という点が非常に難しいところだろうと思います。

 で、これに関連しまして、私たち親がもっともやりがちなひとつのいけないことがあります。それは何か。それはゆりの種を持っている子供をバラに育て上げようとしてしまう。つまり、ゆりの種というのは子供が与えられている固有のもの、バラの花というのは親の願望なんですね。親の願望どおり育てようと焦りますと、その過ちを犯しがちです。ですからこれは決して賢明とは言えません。例えば運動能力に優れ、屋外で日いっぱい体を動かして遊びたい、そういう子供を屋内に閉じ込めて、例えばピアノの練習を強制する。これは愚かなことであります。ところがこれを多くの親はやりがちなわけです。無理もありません。そうやって早期教育をしたら、一流の演奏家になるかもしれないという夢を托したいわけですね。でもそれはどこかで見切りをつけなくちゃいけないのでしょう。まず第一に、子供がそれを本当に望んでいるかどうか。少なくとも、望んでいないことを強制的にやらせるとしたら、これは決していい結果を生まないでしょうね。もうひとつ気をつけなければならないことは、本人が望んでいるように外見上見える、という場合です。これが要注意です。本当に興味を持っているのだったらいいのですけれども、実は自分がそれに興味を持っているという態度を示せば、親が喜ぶ、それを子供は敏感に感じ取って、合わせている。親に喜ばれたいから、――親に喜ばれるということは自分の身にとっては親に大事にされているということなんですね――その満足感を得たいから親に合わせる。それを本人は戦略的にやるわけではない、意図的にやるわけでもない、子供の本能でそう動いてしまうんですね。これが日常的に積み重なっていきますと、いつか型ができてしまって、そのようにしか生きられない子供になっていきます。

 さて、乳児の段階では、先ほども触れましたように、まだこの子がどんな才能をどれだけ与えられてきているのか全くつかめません。ですから、最初はあまり親の意向であれをさせよう、これをさせようとか考えないで、しばらくはじっと観察するのがたぶん得策だと思いますね。で、年齢が進むうちに段々とこの子がどんな種を持っているのかがおぼろげながら見えてくる。でも、そのときにも思い違いということがありえますけれども。思い違いをしていないかと自分を戒めながらも、だんだんにその子を見極めて、適切な指導を受けられるように方向づけをしていくというのが、たぶん賢明な親のやり方だと思います。

 ところで、そういった才能教育という面では何をしたらいいのか分からないという段階であっても、もうその段階からすでに親としてはこれだけは心がけていなければならないと思われる一番重要な点があります。それは何か。親として第一に心がけなければならないことは、その子がはっきりと自己主張をしながら、しかも他の人々といたずらに衝突することなく、円満なコミュニケーションを持てる人物、そういう人物になってゆくこと、言い換えれば自分自身と他人を等しく肯定的に認める、つまり、OKと評価することができる人物です。そういう人物に育つように配慮することだろうと思います。結局これが人間として社会生活を送る上で一番重要な点だと私は考えるからです。学業成績がいいということ、また絵が上手に描ける、ピアノが上手に弾けるとかいうようなことに先立って、またそれをはるかに上回って、大切なことだろうと思います。しかも時間的な意味では一番先にそれに取り掛からなければならない。なぜか。子供は親という手本を見て、それを真似ながら生きるすべを身につけるからに他なりません。ですから、親が今申したような人物に育つように願っていれば、それにふさわしい自分自身の生き方をすることになるわけです。それが自ら子供に反映していく。私はそういうサイクルがあると考えております。その点全く配慮していない親の元に育った子供は、不幸なことにその恩恵を受けることはない。そうすると、いろいろな歪みがそこから生まれてくる。この点は親が非常に気をつけなければならない点であろうと思います。

 次に、もう少し大きくなりますと、乳児の段階を脱して歩き始めますと、いわゆる公園デビューですね。他の子供たちと外で交わりを持つ、そういう年頃になってまいります。この段階で、そのような交わりを閉ざしてしまって家の中に閉じ込めてしまう親がいるとしたら、これは愚かな親としかいえません。愚かな親と言ってはいけませんかね。親としては愚かなやり方だというべきでしょうか。あとで申し上げることと関係しますけれども。何で他の子との交わりを閉ざして、屋内に閉じ込めたりするのか。それは例えば、ある意図している英才教育のためであったり、あるいは、親の目から見てあまり好ましくない家庭の子だから付き合っちゃだめよ、ということなのかもしれません。でも、そういうことで子供を一人ぼっちにしてしまうのは、子供にとっては非常に不幸なことだろうと思います。いろんな子供と交わることを通じて、子供は成長していく。実は子供自身に成長する力があるんですね。それを低く評価しちゃうわけです。親の引いた路線どおりに生きるように、仕向けてしまう。そうすれば安全よ、それがあなたの幸せなんだということでやってしまうわけですけれども、実はこれが一番愚かなやり方だといわざるを得ません。

 先ほどもちょっと触れました。例えば、アノのレッスンを受けるというようなことを子ども自身が進んでやりたがる、というように見える場合がままあります。これも先ほど申しましたように、必ずしもこれが本当の姿ではないのかもしれないという可能性を常に頭の隅において頂きたい。何かのきっかけでそうではないような感じを受けることがあったら、そこで考え直す必要があるでしょうね。なぜその必要があるかといいますと、先ほど申したとおり、子供が本能的に親に合わせて演技するということを日常的に続けていきますと、それは裏返せば、本人の本音を抑圧することになるわけですね。抑圧された本音はだんだんに心の中で発酵していきます。いつということははっきり言えませんが、いつか必ず爆発すると思ったほうが間違いない。遅かれ早かれ爆発するときが来るでしょう。溜め込んだ年数が長ければ長いほど、その爆発は大きくなります。世の中でしきりに伝えられる家庭内暴力のように。あるいは何かにつけて、外に出ると喧嘩をしてしまうという人々の姿も、こういう育ち方をした結果なんだろうというように思われるわけです。

 子供が嫌々ながら、ささやかながら自己を偽り、抑圧することによって、親に迎合している。無意識のうちにそうしている。それを好んでやっていると誤解してしまわないように。これがもうひとつの注意点になります。で、そういった抑圧は強ければ強いほど、そして期間が長ければ長いほど、大きな爆発を起こすわけですが、反面、格別にそういった爆発をしないままに無事に大学を卒業して社会人になるというケースもありますね。ところが、そのあとで、突如として、会社に行くかなくなっちゃったりする。これも爆発の別の形態なんですね。激しい爆発はしなかったけれども、社会人として生きられない、という状況に陥ってしまうわけですから、これもひとつの破局と言わなければなりません。

 こういった事例を通じて何が分かるか。日常的な生活の中で、特に幼児期の生活の中で、抑圧が大きければ大きいほど、その子の人格には歪みが生じる。そしてその歪みがある限界を超えると、なんらかの形で外に現れるんだということであります。ちょうど地震と同じですね。マグマのエネルギーがたまるだけたまって、限界を超えると火山活動がおこったり、地震がおこったりする。人間の心理も同じようなことなんですね。ですから、親はこういうことをよく肝に刻んで、子供に接していく必要があるでしょう。

 先ほども申しましたように、子供はまず、第一に親、そのほかの家族や親族も範囲に入るでしょう、自分の周りの大人たちの生き方を真似て自分の生き方を作っていくものです。真似るということは、自ら実践するということです。自ら実践することによって、それが固まっていくわけです。結果できあがるものが人格というわけですから。ですから、歪んだ形でのコミュニケーションを積んでいけば歪んだ人格になっていってしまう。一般論としてこれはお分かりいただけるだろうと思います。簡単に言えば、親自身が、先ほど申したように、はっきりと自己主張をしながら、しかも他の人と円滑なコミュニケーションが持てる、そういう人物であるならば、当然子供はそういう親の生き方を日常目の当たりにするわけですね。無意識のうちにそれを真似て自らもそうするわけですね。それが固まっていって、円満なコミュニケーションをいつでもどんな相手とでも持てる人格に育ち上がっていく。といいますと、親は楽でいいと思われるかも知れませんが、あいにくそんなに完璧な親はこの世の中にはいません。もちろん私自身も含めてです。親は決して完璧ではないんです。何点ぐらいのできかというのは人それぞれでしょうけれども、完璧な親はいない。ですから子供が育っていく上で何らかの歪みはやむをえない。ひずみが比較的小さければ、子ども自身が成長していく過程で、自ら修正していくができます。ある段階に来ますと、子は親を超えていきます。ということは、別の言い方をすれば、親に見切りをつけるということです。もうこの親から自分は学ぶことがない。もっとはっきり言うと、この親にはこういう欠点がある、そのつもりで接しようと。子供のほうがよっぽど賢明になってきます。親に合わせて、しかも自分を抑圧するんじゃなくて、もっと一段高い境地で親に合わせて波風立てないようにしていくことが、子供にはできるわけです。それが多分子が親を超えたということです。そういう風になっていくものですから、あんまり心配する必要はない。ただし、それであぐらをかいてしまうと、大変なことになります。自分自身も子どもと共に成長していくという気持ちでいないと、失敗をしてしまうことになるでしょう。完璧な親は存在し得ないけれども、親としては少しでも完璧に近づこうと望む必要があると思いますし、勉強もしなければならないでしょう。

 そんな勉強としてはカウンセラーになるためにする勉強をするのがよいだろうと思います。カウンセラーになるための勉強は必ずしもカウンセラーになる人だけのための勉強ではないんですね。それは実は根本的に人として他の人と上手にコミュニケーションをとるために必要な知識なんですね。それをちゃんとできる人がいいカウンセラーになれるのだろうと私は考えます。勉強する内容としては同じことだと思います。それを自己成長のために学ぶということ、これはすべての人にとって有益なことであろうと思います。

 そんな見地から、子供を育てるにあたってのもっとも基本的な要件をあげるとすれば、何か。それは結局のところ一般に他の人々に接するときの基本的要件と同じことです。何だろうか。仮に相手を自分の子供として言葉を使いますと、子供をディスカウントしないで肯定的に認めるということです。一般的には人間関係の中で他人をディスカウントすることなく、同等の人格として重んじるということです。

 何故ことさらにこれを強調するかと申しますと、日本人はディスカウントをやりがちなのです。それがどんな風に現れるか。その前にディスカウントという言葉に関して定義めいたことを申し上げておいた方がよいかと思います。ディスカウントとは――ディスカウントストアでみなさんだいたいイメージしてお分かりのことと思います――本来2000円のものを1000円にして売る、値引きする、元々持っている価値をより少ない価値に変えてしまう。実際に変えてしまうこともあれば、見かけだけ変えてしまうこともあれば、単にそう思い込むということもある。で、いろいろな次元でディスカウントすることが起こりうるわけですね。要するに相手の持っている価値、能力、長所そういったものを素直に認めないで、ひどいときには全面的に否定したり、過小評価することをさまざまな形で私たちはやりがちなんです。同僚がある仕事で成果を上げた。すると周りがなんと言うか。「運がよかっただけだよ」と言う。これもひとつのディスカウントです。素直に「あいつ頑張ってたからな」と言えない。運がよかっただけだとくさす、その裏にあるものは、「俺だってやってるんだ。ところが周りの人間は俺を評価してくれていない。」――こういう思いなんですね。表裏一体をなしています。日本人に良く見られる顕著な傾向です。これは、相手をけなすことによって自分を偉いものに見せようとするのであって、相手をけなすことが目的ではないのです。それを利用して自分を他人に評価してもらおうと思っているわけです。こういう風にディスカウントということが行われる。これをやろうとしてやっている人はいないと思いますが、無意識のうちにやってしまうわけです。そういうことをやりがちな人と、そうでない人とがあります。自己主張することが相手を否定する形でしかできない。これはある意味で非常に歪んだ人格と言わざるを得ないと思います。

 では、それはどんな風に現れるのか。特に親子の間に絞って例を挙げてみたいと思います。これ以上はないというひどいディスカウントは、相手の存在そのものを否定することです。親の子供に対する言葉としての具体例をあげますと、「お前なんか生まれてこなければよかった」、「本当はまだ子供は欲しくなかったんだけど間違ってできちゃったのよ」――これは母親の台詞でしょうけれど――そんな風な言葉はぐさりと子供の心に突き刺さります。「僕(私)は生まれてきてはいけなかったんだろうか、この世に生きていていいのだろうか」と思い込ませてしまいかねないわけです。一回ぐらいならそれほどのことにならないでしょうけれども、日常のように繰り返されたら、子供の心に思いがこり固まっていくでしょうね。それほど、露骨ではないとしても、とにかく子供心に「私は生まれてこないほうがよかったのかな」というそんな思いが生まれると大変なことになります。あるいは、「パパとママは僕がいなければいいと思っているんだ」とそんな風に思ってしまうと「生きていてはいけないんだ」と思い込み、死を考えるようになり、遂には自殺してしまうということにもなりかねません。その他、これほどひどい例ではなくても、本質的には似たような言葉を私たちはついうっかりと口にしがちです。例えば、「お前は駄目な奴だな」「あんただめな子ね」と――愚痴ですね。それほどには思ってないんですけれども――つい愚痴で言ってしまう。でもついこれを口癖のようにやりますと、「僕は本当に駄目な奴だ」と思ってしまいかねない。幸いに子供がそう思わなければいいんですけれども、なかなかそうはいきません。ですからこの種の言葉は厳に慎む必要があるでしょう。親はそのつもりでなくても、子はそう受け取るということに用心しなければいけません。その子に対する評価、さらにはその存在を否定する意味を持ちうる言葉は発しないことです。親は冗談のつもりで言ったとしても子供には分からない。深刻に受け止める可能性が高いわけです。深刻に受け止めるということは深く傷つくということです。それが日常的に繰り返されていきますと、「パパやママがああいうから僕はだめな奴なのかな」と思い込んでしまい、「だめな奴だったら生きていてもしょうがないんじゃないか」と論理は展開していくわけですね。これは防がなくてはならない。子供が無意識のうちに論理を展開する裏にある理由は、言うまでもなく親に愛されていたいという思いです。親に認められていること、愛されていると実感をもてることが子供の幸せなのですから。したがって、その面でどうも違うなって思うと、「私は大事にされていないのだな、生きてちゃいけないんだな」と、論理が展開されていくわけです。仮に子供自身に、その子自身に叱責に値する落ち度があったとします。これはぜひ指導して改めさせる必要があると思える場合でも、用心しなければならないことがあると思います。これも日本人によくみられる傾向なんですが、人の落ち度をとがめるときに人格を否定するような意味の言葉を口にする。例えば、ある友人がちょっとばかげたことをやってしまった。それに対してなんと言うか。「そんなことするのはばかげているよ」と言う人は少ないと思われます。「お前、馬鹿なやつだな」――この類いの言葉に気をつけなければならない。いけないのはやった事柄なのですね。だからそのことを客観的に指摘して改めさせることは必要なんですけれども、最初にお前はだめな奴だと言ってしまうと、相手はもう心を閉ざしてしまう。あとのことは耳に入らなくなってしまう。少なくとも、たとえ耳に入っても聞く耳をもたなくなってしまうわけです。ですから、叱責するのであっても、その事柄だけに限定して叱責しなければならない。これは相当神経を使わないとやりがちですから注意していただきたい。

 もうひとつ。例を言いましょう。学校でテストがあった。うちの子が65点のテストを持って帰ってきた。さてこれにどう対応すればいいでしょう。例えば、ある父親は「なんだ、たった65点か」と吐き捨てるように言い、更には「パパはいつも100点だった」と自分を引き合いに出し、自分を優れた親だと言ってしまう。「なのに、その子であるおまえはたった65点か」という構図にしてしまうわけですね。もう一言つけ加えて、「普段からしっかり勉強していないからいけないんだ、明日からしっかり勉強しろよ」と、お説教で終わる。その子供がどこで間違いを犯し、その結果65点になったのか、その原因を知ろうともしない。この父親の関心事は点数のみなわけです。もうひとつつけ加えるならば、自分と比較してお前はだめなやつだといっているわけですから、これは最低の対応といわざるを得ません。

 ではどういう風に対応すればよいのか。どこでどういうふうに間違えて結果65点になってしまったのか、子供と一緒に探す。けれどもここで間違えたんだなといきなり指摘してはいけないのです。そのテストのときに子供がどういう考え方をしたのか、できるだけ言葉で再現させるわけです。で、そのプロセスでここで間違えたとわかったら、今、お前はこういったけれども、間違っているんだよ、と本人にしっかりと理解されれば、以後同じ間違いを犯さなくなるだろうと思います。

 母親の場合は、例えば、「テストは100点取らなきゃね。あんたはまたつまらない間違いをしたんでしょう、おっちょこちょいなんだから」と言う。これもよくあるパターンです。先ほどの父親と五十歩百歩ですね。100点を取るということにこだわるだけですね、満点にこだわるだけで、それが出来ない子を「おっちょこちょい」で切り捨ててしまう。やはり、どこでどう間違えて65点になったのかを探ることなどは思いもよらない。これは非常に下手で、もっというと愚かで、子供の扱い方が下手だと思います。

 もう一人の父親を例に挙げます。「65点か、惜しかったな。どこでどう間違ったのか分かってるかい」と、先ほど申したプロセスで少し手をかけて子ども自身にどこでどう間違えたのかしっかりと見極めさせる。これが一番賢明なやり方だと思います。そしてそのプロセスでは決して子供を咎めません。咎めることなく、その咎めずにはいられなくなるような結果を生んだ原因を客観的に究明して、しかもそのことを本人にしっかり理解させること、これが一番賢明な親の接し方だと思います。

 もうひとつの例です。子供が外から泣きながら帰ってきた、見ると血を流すほどの傷を負っている。こういうケースに遭遇するのは父親よりも母親のほうが多いでしょうね。すぐ病院に連れて行かなければならないほどではないとしても血が出ている。さて、どんな風に対応するでしょうか?

まずひとつは、「気をつけなきゃだめじゃないの」と開口一番叱る。なぜ叱るのか? 血を流すほどの怪我をして親に心配をかけたからです。まず叱責してしまって、それから傷の手当てをする。このタイプは多いと思います。黙って手当てをするのではなく、一言叱ってからするんです。実はその叱ることが妥当かどうかはまだ分からないのですよ。何が原因で怪我をしたのか分からないわけですからね。けれども何か落ち度があると決めてかかってしまう。これも一種のディスカウントと言えるのです。

 次はもっとよくない例です。「また喧嘩したのね、相手は誰?」と、とにかく先ず詰問する。叱るよりも強いのです。しかも、子供が怪我をした原因は喧嘩だと決めてかかっている。これも最低の対応と言わざるを得ないと思います。

 ではどうしたらいいのか。とにかく、今は血が出ているのですから、一番大事なことは傷の手当てをすることです。ですから傷の手当てを済ませて、その間に子供の気持ちを落ち着かせてから、いったい何があったのか冷静に聞き出す。これもその経緯をできるだけ本人の口で話させる。次を誘うように言葉を向けるんですね。子供の言葉を引き出すような問いかけ方をするわけです。この対応の仕方がおそらく最善だろうと思います。ただこの場合でも、気をつけなければならないことがある。決して問い詰めるような口調になってはいけない、ということです。親というのはつい気が急いて問い詰めてしまうんですね。子供がすぐに答えないと、答えを渋っているんじゃないかと勘ぐってしまうんですね。そうではないのです。子供は言葉を捜してるんです。どういえばいいのかと思って時間がかかっているんです。それをゆっくり待ってあげないといけない。決して、親の方からこうなのか、ああなのかと考えられるケースを想定し、言葉にしてYESかNOを迫る、そういう問いかけをしないということです。英語でいう5W1Hというあれです。誰と、どこで、とひとつずつ聞き出していく、そういう聞き方をするわけです。イエスかノーかでしか答えられない問いかけはしないということです。そうすれば子供は仕向けられた誘導に乗って、頭の中にもやもやとしているものを段々整理して話すことができるようになるのです。必要な材料を引き出し終わったら、改めて母親の口で整理し、並べ替える。順序立てて話をして、最後に「こうだったのね」と確認する。これについてはYesと答えられるわけです。もし違ったら、どこが違うのかまた問い掛けなければいけないのです。経緯を聞いて、話を聞いて分かった時点で、子供に不注意な点があったら、それを指摘して注意する。あくまでもその事柄についてです。決してそこで、「あなたはだめな子ね」ってことをやってしまわないように。それをやってしまったら元も子もありません。せっかく延々とやっていたことが崩壊してしまいます。

 今最後の例でも申し上げましたけれども、こういう親子の間の対話が日常的に交わされていますと、それを通じて子供は自然に自分の頭の中の考えを上手に整理して話せる人間になっていきます。ところが多くの親は、「今忙しいから後で、晩御飯終わってから聞いてあげるから」と、子供がせっかく話したがっているのに、シャットアウトするんですね。これが何度も繰り返されますと、お母さんに話したってどうせ今忙しいって言われるに決まっているから、と話すのをやめてしまいます。ご飯が終わってから、さすがにお母さんも忘れてはいなくて気になっているから、「さっきの話なんだったの」と聞いても、「もういいよ」というふうになってしまうわけですね。つまり子供にとってはその時点で聞いてもらいたいことであって、後でであったら、聞いてもらってもしょうがない。少なくとも子供の思いにおいてはですね。ですからできるだけ、子供が話しかけたその時点で根気よく対応して、今申し上げた手順でもって会話をする。これをしますと、子ども自身整理してだんだん上手に話ができるようになっていく。これはたぶん学校生活では作文が上手になるということでしょうし、指名されて発表することになっても上手に答えられるってことにつながるわけです。漢字を覚えさせたりするより、はるかに効果的な教育法だと思います。

 最後にひとつ。これは子ども自身との対応ではなくて、他の大人と間の対話の中でついうっかりやってしまうことなので気をつけなければいけない点を上げておきたいと思います。これは母親が多いでしょう。父親は機会がないためかめったに見かけませんが、母親の場合はしょっちゅうあるのです。例えば、隣家の主婦に向かって、「お宅の花子ちゃんは偉いわね、挨拶がしっかりできて。それに比べてうちの太郎ときたらぜんぜんだめなのよ。恥ずかしいったらありゃしない」と。こんな類いの発話は多分耳にすることが多かろうと思います。これは子供には非常に害になるでしょう。子ども自身がそこにいることが多いでしょうからね。もっとも、子どもがそこにいなかったら安心してやっていいってことでもないのです。こういう言葉がふと出てしまうような人だと、子供に接するときも似たようなことをやるのです。ですからこの辺も含めて注意しておかなくてはいけないのです。これも一種のディスカウントですね。隣家の娘を褒めて隣人を喜ばせようとしているわけです。それ自体は悪くありません。もしそれが単なるお世辞ではなく本当のことならばですけれども。しかしなぜそこで自分の息子を引き合いに出す必要があるか。全然ないんですよね。なのに引き合いに出した。そこにどんな意味があったか?「私はあなたのお嬢さんを褒めているんですよ」ということを強調するために、わざわざ自分の子供を引き合いに出したわけです。その点に関して自分の子供は劣っているということを指摘して、それによって自分が相手を褒めているということを強調しているのです。だしに使われた子供はたまったもんじゃありません。親にそんな深謀遠慮があることは子供には全然分からないわけですから、端的に「僕は駄目なんだ」と思ってしまう。少なくともママはそう言っていると認識してしまうわけで、これは大変気をつけなければいけない点であります。親に疎んじられていると感じとってしまいかねないような言葉は発しない。これだけ気をつけていれば防げるわけですね。

 以上申し上げましたように私たちはとかくいろんな形で相手の人、自分の周りにいる人をくさす=ディスカウントすることで、自分を大きく見せようとしたり、または自分の側のものを逆にくさすことで、相手の方を持ち上げたり、やりがちなのですが、いずれにも共通している点は、他人をディスカウントしている点であります。これをやるかぎり円滑なコミュニケーションがもてません。逆にすべての相手を正しく評価する、場合によっては正しい以上に評価する、形式的にでもいいですから評価する、でも自分は自分で譲れない大事なものだということをしっかりとはずさないということです。そうするとそこからおのずとどうすればいいか工夫する気持ちが働くわけで、そんなときに他人との円滑なコミュニケーションをやっていく知恵が生まれてくるだろうと思います。とかく自分を押さえ込んでしまう、あるいは逆に他人をくさすという方に走りがちであったり、というのが大方の人間の傾向ですから、自分にそういった傾向がないかどうか見極めて、自分がもっている傾向、はっきり言えば歪みですね、それを自らの才覚で修正していくように心がけていく。それができる親だったらたぶん子供は順調に育つだろう、と私は申し上げたいと思います。




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